『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』 村上龍


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コンビニ、居酒屋、公園、カラオケボックスなどの “場所” を取り上げ、そこでのできごとと、そこにいるはずの “わたし” がまわりに溶け込めず、自分の存在とはいったい何なのか、さまざまな思いをめぐらすというお話しです。一つ一つの場所が短編として集められています。



学校、家庭、職場、地域社会など、ありとあらゆる “場所” が個人の心を満たすことができなくなり、漂流したり、呆然とする人々を描きます。“あれっ、どうも自分だけ輪の中に入っていない” という感覚を持ったことがありませんか。 





個人的には村上氏の本はあまり好きではありませんでした。どうも冗長に感じられてしまう情景描写、ワインやブランドの話はどこでも読めるので、私はそれに引き込まれることがなく、読んでいて、“ひとりよがり” のように思っていました。



しかし、数年前、ゆとり教育論争が盛んになったおり、『教育の崩壊という嘘』 という本を読んで以来、見方ががらっと変わりました。



日本社会全体の問題を単に教育、まして学校、教師の問題というように矮小化することを許さない!という主張が伝わってくる本で、膨大な量の中学生に対するアンケートをもとに書かれた一冊です。小説ではありません。



同様の主張を、重松清氏(みんなのなやみ) や 鈴木光司氏(なぜ勉強するのか)などの人気作家も、小説以外の形で、明確に表明しているように思います。



作家の人並みはずれた感受性が、こういうところで活かされるのだと感心しました。というようなわけで、村上氏は作家より教育評論家としてのほうがすぐれていると思っていたのですが、直後に 『希望の国のエクソダス』 『最後の家族』 などの作品で、そうした問題を考える材料をたくさん与えてもらいました。



正直、そのあとまた、2,3度は、“やっぱりダメ” と感じてしまう本に当たりましたが(笑)、本書はまた、日本人の心の問題を描いた良書だと思います。





村上氏は教育問題の解決策は集団不登校だとどこかで述べており、『希望の国エクソダス』 (エクソダスとは、旧約聖書のタイトル。「出エジプト記」で、奴隷にされていたイスラエルの民をモーゼが海を渡って、カナンの地に移動させる民族解放の物語) では、『この国には何でもあるが、“希望”がない』 という意味のことを主人公に語らせています。





自殺者年間3万人以上という、教育よりさらに広く、日本人の心の問題はどうなのでしょう。問題が存在することはすでに多くの作家が表現していますので、それを解決する答えをそろそろ見せてほしいと思っていますが、残念ながらそこまでは本書からも読み取れません。



ただ、大きな事件ではなくとも、何気ない日々の生活の中で起こるちょっとしたことの中で感ずる孤独というのが、不気味さをもって描かれているように感じます。



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